冬に逆戻りした22日の東京。電力逼迫で大規模停電の恐れがあるということで、節電の呼びかけがなされました。夕方以降いよいよ強まる「電力需給逼迫警報」というプレッシャー。
もちろん協力はしますが、送電網の整備、蓄電池や再エネへの投資、日本のエネルギー政策にはどんなビジョンが?って、もやもやしながらあらためてエネルギーについて考えた夜。
東日本大震災をきっかけに、大きな発電に依存する危うさや心許なさを自分ゴトとして考えるようになりました。持続可能な暮らしや社会をイメージした時、大きな規模、集中という構造を一旦冷静に見つめ、自分の足元から見直していく必要があるように感じたのです。
東京は暮らしの中のあらゆるモノコトが(そのサプライチェーンが)多重化複雑化してアンコントロールな事が多く、大げさかもしれませんが、暮らしや命を大きなシステムや見えない誰かに預けている状態。簡単便利。問題はだいたいお金で解決。これって真に持続可能とはいえないなぁって。
エネルギーは、時代によって捉え方も違い、その選択も変わってきました。石炭から石油へ、原子力の平和利用、そして、気候危機という課題に直面した今、時代は脱炭素へ。脱炭素を是とすると、原発さえも肯定されるのですよね。エネルギーに限らず、いろんな問題、正解は一つではないことも多くて、論理と論理、倫理と倫理、正義と正義がぶつかりあいます。その中で、自分の意見はどうか?なぜそう考えるのか?明確な答えを出すのは難しいことも多いけれど、自分なりの意見は持っていたいものです。
昭和の途中まで、私たちの暮らしの燃料は薪や木炭でした。祖父母の家でも、かまどで炊飯、お風呂も薪で炊き、こたつも電気ではなく炭を置いていたのがおぼろげな記憶にあります。親戚のうちには五右衛門風呂もありました。いま思うと、薪の燃える音やにおい、炎のゆらぎ、風景とセットで、あたたかくて、美味しくて、気持ちよかったなぁ〜って。
いまはそれらがほとんど電気になり、私たちの暮らしは、大きな発電所、大きなグリッドに依存しているのですよね。
このままでいいのだろうか?もっと小さな単位で、大きな何かに依存しないエネルギーを、脱炭素の時代的にアップデートできないだろうか?そんなことをずっと考えていました。それを林業とつなげて形にしたのが、「発電天草ヒノキ小屋」だったのでした。